―パウロが愛した教会―
あなたがた自身が知っているように、私たちがテサロニケに行ったことは「無駄ではなかった」とパウロは語ります。
この言葉には、深い背景があります。
🌿迫害の中で
パウロはテサロニケに来る直前、ピリピでひどい迫害を受けました。
殴られ、投獄され、辱められたその直後に、再び福音を語るために新しい町へ向かったのです。
普通なら心が折れてもおかしくない状況でした。
しかし、彼は言います。
「それでも、私たちの働きは無駄ではなかった。」
なぜなら、
テサロニケの人々は福音を受け入れ、
偶像から真の神へと立ち返ったからです。
苦しみの中でも、神の言葉は確かに実を結びました。
🌿 偽教師との区別が必要だった
当時のギリシア世界には、巡回しながら
- 誤った教えを広める者
- 不純な動機で人を惑わす者
- 金銭や名声を求める偽教師
が数多くいました。
そのためパウロは、あえてこう語ります。
- 私たちの勧めは「誤り」ではない
- 「不純な動機」でもない
- 「騙しごと」でもない
- 人を喜ばせるために語ったのではない
- 利益を得るための口実を設けたのでもない
これは、誤解を避けるための説明でした。
彼らの宣教は、世にあふれる偽教師とは全く違うということを、信徒たちに安心してほしかったのです。
🌿 母親のような愛で
そしてパウロは、宣教者としての姿勢をこう表現します。
📖7-8節
「母親が自分の子どもを優しく世話するように、私たちはあなたがたの間で優しくふるまいました。」
母親の愛は、
- 無条件
- 見返りを求めない
- 弱さに寄り添う
- 自分を犠牲にしてでも守る
そんな愛です。
パウロは、テサロニケの信徒をそのように扱いました。
彼らは信仰に入ったばかりで、迫害の中にあり、弱く、守られる必要がありました。
だからこそ、
「福音だけでなく、自分のいのちさえ与えたいほど」
彼らを愛したのです。
宣教は、ただ言葉を伝えることではありません。
自分自身を差し出し、相手の人生に寄り添うこと。
その姿勢こそが、母のような愛でした。
🌈 今日の祈り
主よ、
パウロが示したような、
純粋で、見返りを求めない愛を私にも与えてください。
人を導くとき、教えるとき、仕えるとき、
母のように優しく、父のように励まし、
あなたの心をもって関わる者としてください。
私の働きが、どんな小さなものであっても、
あなたの御手の中で「無駄ではなかった」と言えるものとなりますように。
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